「世界一周の旅に出る」ことを意識したのはいつからでしょう。
正確には覚えていませんが、「海外に興味を抱いた時期」に関してはよく覚えています。
私の実家は宮城県仙台市に位置する、ごく一般的な中流家庭でした。
決して裕福ではなかった家庭でしたが、父の「なるべく年に1度家族で海外へ行く」という方針は他の家庭にはあまり見られない我が家ならではの習わしでした。
「子供が小さいうちから海外に触れさせて、様々なものを見せて興味や関心を広げてあげたい」という親の思いがあったようです。
大人になった今は、両親は無理をして経費をやりくりしていたことは容易に想像できます。
そういった姿を子供に見せることがなかった両親を尊敬しています。
そのおかげで何の疑問も抱かずに、当たり前のように小学生のうちからタイ・プーケット島・シンガポール・グアム・バリ島・オーストラリアへ行くことができました。
家族の話を持ち出すとなると、母方の祖父についても触れる必要があります。
岩手県の出身で当時大学を卒業して間もなかった祖父は、まだ20代前半にして日中戦争の渦中である中国へ
「県政司令官」という立場で赴き、現地で多くの人を從え活躍していたそうです。
彼のモットーは「とにかく広い世界を見ろ」でした。
身長182cmで豪快、常に威風堂々とした態度ですが決して偉ぶらない立派な人でした。
またそんな祖父と中国で出会った私の祖母は長崎の出身で、その父が商人として中国でかなりの財をなしていたそうです。
当然、世界大戦の敗戦で全てを失い帰国するのですが、その後私の母が生まれ、今もその血と教えは私の身体の中に流れています。
振り返るならばこの2点。
両親が私の幼少期に毎年のように海外へ連れて行ってくれたこと
祖父が常に「広い世界を見ろ」と孫に伝えていたこと
が、私の海外への憧れを強めていたことに疑いはありません。
部活動で忙しかった中学時代、悪友たちとつるみ大人の真似事ばかりしていた高校時代、一人暮らしの快適さに溺れ更に欲のままに生き抜いた浪人時代を経て
私は秋田大学の医学部へ入学することになりました。
その6年間では家族でイタリアへ。また、友人たちとはオーストラリア、セブ島へ。当時交際していた女性とはバリ島、グアム島へと行くことができました。
しかし、元から計画性がなく衝動買いを繰り返していた私にとって、より長期の旅をするための資金を蓄えることは困難でした。
それ以上に、周囲にいわゆるバックパッカーと呼ばれるタイプの人間もおらず
具体的にどのように実行するのかを意識したこともありませんでした。
しかし、21歳になったばかりのある日
父が急死しました。病死でした。
秋田から呼び出され、久しぶりに実家の玄関をまたぐと
父の亡骸が棺の中に眠っていました。
この時、「人は必ず死ぬ」という当たり前の事実にこれ以上ない痛みの中で気づくことができました。
父の死を境にして、私は内向的な人間になっていきました。
それまでは常に集団の中心におり、目立ち、時に法を犯し、刹那的に生きていた私でしたが
人との関わりを好まず、大学へもほとんど通わず
毎日ほとんどの時間を読書や映画鑑賞などの架空の世界を貪ることに費やしていました。
それ以外の時間はひたすら海へ通い、海を眺めたり釣りをしたり
私の孤独を愛する精神の土壌はこの時に形づくられていきました。
無論、仲の良い友人はいたし、交際していた女性もいましたが
その関わり方は大きく変化していました。
しかし、通常よりは長い6年間という大学生活といえども
無情に時は過ぎ去って生きます。
どこかで漠然とした旅への憧憬は抱き続けたまま
流れに逆らえない弱った魚のように、刻一刻と迫る社会人への道を流さ続けて行きました。
当時(今も大きくは変わりありませんが)は、「大学時代は時間がたくさんあるから遊んでおけ、社会に出ればお金はあっても遊ぶ時間はない」
と人生の先輩方から悔恨と羨望の混じった多くのアドバイスを頂いており、それを鵜呑みにしていたので
「もう少しで人生は終わりだな」と悲観的に捉えていたように思います。
地元仙台へ帰り、研修医として勤務していた2011年3月11日
東日本大震災が起こりました。救急科をローテートしていた時期に重なり
津波で流されたばかりの患者さんたちが低体温症で震えながら救急車で運ばれてくるのを
誰よりも早く対処していたのが私たちの働く病院の救急科でした。
その後連日、自分の故郷の宮城県、岩手県で多くの人の死が報道され続け
福島の原発から100km圏内に住んでいたことでメルトダウンの恐怖に晒されながら
「世界は簡単に変わってしまう」
という事実を日々突きつけられました。
「永遠に変わらないものなどはない」という事実を改めて確認しました。
振り返ると
「父の死」と「東日本大震災」は私にとって「人生で何を優先すべきか」という問いに答えを与えてくれたようです。
それは「心が動くことをする」というものでした。
人間は「体と心」と単純に2分することはできませんが、あえてわけるなら「心」への興味が優っていた私は
悩んだ挙句、精神科への道を歩むことを決めました。
同時に、「人生で何を優先すべきか」という問いに対し
「心が動くことをする」と決めていた私は
人生で成し遂げたいことを、条件をつけずに羅列してみることにしました。
その中で、最も惹かれたのが「世界一周」でした。
この時点で、必ず行くことを決意。周囲のごく親しい人に限り打ち明け
ずっと温め続けていました。
精神保健指定医や精神科学会専門医の取得、後期研修医としての義務年度が終わる2017年3月に医局を辞め
世界一周をすると決断したのです。
「するかも」ではなく「必ずする」という決断が大切でした。
これまで一貫性のない人生を送ってきた私にとって、5年後に見定めた目標に対して人生を合わせていく作業は大変でしたが
世界遺産検定の受験、ワイン検定の受験、筋トレ、英語の勉強 など、旅をより豊かなものにしてくれるであろう経験や技能には
お金も時間も惜しみなく注ぎました。
結婚も意識していた恋人の賛同がどうしても得られず、別離に至ってしまったことも
世界一周への決意をより強めたことは間違いありません。
私にとって世界一周とは
「旅をしたい、知らない世界を見たい」という欲望・衝動以上に
「自分が決断したことを何が何でも実現させる」
という、これまでの優柔不断で流れに流されてきた自分の生き方を改めるための
カウンターアタックでした。
自分を肯定することの難しさを知らない人はいないでしょう。
私たちは皆、他者と比較しては己を批判的に捉え、落ち込み、理想を追い求めます。
顔の造形や能力など先天的な要素を恨み、自尊心を保つために誰かを貶め、自分を肯定してくれる誰かの存在を求めています。
私が実際にそうでした。
何かに追われるように自分を肯定しようとしても
いつも決まって自信を喪失していました。
「何かを心から追い求め、決断し、成し遂げたこと」がなかったからです。
しかし、この5年間夢を追いかける過程で
私は自分を肯定できるようになりました。
医師としての理想的な生き方がキャリアを追求して行くことだとすると私の生き方はそれに反しているかもしれませんが
医師である以前に人間である私にとっては
心を最も動かされること、すなわち
これをやらずに死ねるか!
と思ったことに対し、やると決断し
長年それを温め、準備し、失うものの大きさに苦しみながらも
遂に叶えることができました。
今私は、夢の途上にいますが
これまで味わったことのない充足感に満たされています。
同時に、この上なく自分自身を肯定できています。
それはナルシスティックな自己愛だったり
防衛的に築き上げた砂上の楼閣のような自尊心ではなく
他者からの批判などものともしないような
「自分自身の生き方」に対する肯定です。
私は今、確信しています。
私は、自分を肯定するために旅に出た、と。